NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公は「まひろ」こと紫式部でライバル?となる女性で「ききょう」こと清少納言が登場しましたが2人の年齢や活躍した年代は同じくらい?「光る君へ」の清少納言と紫式部の年齢や年代など、違いについて史実・実話をご紹介します。
光る君への清少納言と紫式部とは?
紫式部とは?
NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公は、後に紫式部となる「まひろ」で吉高由里子さんが演じています。
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【第七回】おかしきことこそ
本日2月18日(日)
[総合] 夜8時00分
[BS・BSP4K] 午後6時00分
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学問をつかさどる父・藤原為時のもとで並外れた文学の才を発揮し、想像力と好奇心を育む。のちに、まひろが書きつづる『源氏物語』は、道長のバックアップを受け、天皇や貴族の間で大ベストセラーとなる。
引用元:公式サイト
下級貴族の藤原為時(岸谷五朗)とちやは(国仲涼子)の娘としてうまれたまひろ。
幼いころから並外れた文学の才能を持ち、成長してからは絵師(三遊亭小遊三)のもとで代わりに恋文を書く仕事などを行っていました。
それが父・為時にばれてしまってからは、まひろは父の命に従い、左大臣・源雅信(益岡徹)の娘・倫子(黒木華)の歌会に通う日々を続けます。
そんなまひろが幼いころから憧れているのは、左大臣・藤原兼家(段田安則)の三男・藤原道長(柄本佑)です。
道長もまひろのことを気にかけているのですが、実は道長の兄・道兼(玉置玲央)は、まひろの母・ちやはを殺害した人物!
Not found the post.まひろにとって、道長の藤原家は因縁の相手でもあるのです。
清少納言【ききょう】とは?
一方、第6回からはのちの清少納言こと「ききょう」が初登場しました!
演じているのはファーストサマーウイカさんです。
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歌人・清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘。才気煥発(かんぱつ)。一条天皇に入内(じゅだい)した定子のもとに女房として出仕し、心からの忠誠を尽くす。
引用元:公式サイト
第6回では、道長の兄・藤原道隆(井浦新)の家で、漢詩の会が行わることになり、まひろとともに、歌人・清原元輔の娘である「ききょう」も参加しました。
藤原公任(町田啓太)が漢詩を披露して感想を求められたまひろは、まるで白楽天のようだと絶賛します。
するとききょうは、その意見に異を唱え・・・
「私はそうは思いません。むしろ白楽天の親友だった元微之(げんびし)のような闊達なうたいぶりでした」と返したのです。
そして歌会が終わったのち、ききょうはまひろにこう言います。
「まひろさまはお疲れなのかしら?私は斉信様がお選びになった歌が好きだったわ」
と、まひろの評価した公任とは違い、藤原斉信(金田哲)の漢詩を評価したのです。
そんなやり取りを見た父の清原元輔は、「出過ぎたことを申すでない」とききょうをいさめるという展開でしたね。
ということで、後の清少納言ことききょうは、思ったことを素直に口に出す女性みたいです。
一方の主人公まひろは、どちらかというと控え目で自己主張は弱めな女性な感じでこれまで描かれています。
これから二人はライバル関係になっていくのかもしれませんね!
そして皆さん気になるのは、史実の紫式部と清少納言はどんな女性なのか?
紫式部は源氏物語、清少納言は枕草子を書いたと言うことは歴史の授業で習いましたが、それ以上の事ってあまり分からないですよね(;^_^A
さらに二人には実際に接点や交流はあったのか、気になる方も多いはず。
以降で史実の清少納言と紫式部についてネタバレ紹介したいと思います!
清少納言と紫式部の年齢や年代は同じ?史実に接点はあったの?
清少納言と紫式部の年齢や年代は同じ?
皆さん、歴史の授業で習ったことがある紫式部と清少納言!
紫式部は973年に誕生!そして清少納言は966年に生まれた。
紫式部 973年 誕生
清少納言 966年 誕生
清少納言は紫式部より7歳年上とされていますね。
7歳違と言うことで、ほぼ同じ年代である2人ですが、接点はあったのでしょうか?
2人の史実に接点はあったの?
同じ平安時代を生きた女性と言うことで、ライバルで接点が有ったのだろうと思いがちですが・・・
実は二人は、直接会って言葉を交わしたり、手紙のやりとりをしたことはないと言われています。
2人とも宮中で天皇の妻である「中宮」に仕えていたという共通点はあるもの、その時期が異なるためです。
まず宮中で仕えていたのは清少納言で、993年から1000年頃。
一方、紫式部は1005年ころから出仕しており、先ほども言ったように、年齢も清少納言の方が7歳ほど年上なんですね。
と言うことで、清少納言と紫式部には直接的な接点は無く、ライバル関係では無かったとされています。
しかし、紫式部のほうは後に著書の中で清少納言についての記述があるみたいで、同じ女流作家という立場から意識していたようです。
以降で、紫式部と清少納言の史実についてそれぞれ詳しくご紹介します。
清少納言と紫式部の違いについても
紫式部の史実は?内気な性格だった!
紫式部は973年、学者で詩人の藤原為時の娘として生まれました。
幼いころに母親を亡くした紫式部は父のもとで暮らし、歌集や歴史書などを読み、文学的な才能を育んでいきます。
性格としてはプライドが高く自意識過剰で、内気な性格だったとか。
そして成長した紫式部は、藤原宣孝と結婚することになります。
「光る君へ」では佐々木蔵之介さんが演じています。
なんとこの二人、史実通りであればのちに夫婦になるんですね(;^_^A
【NHK人x物x録】 #佐々木蔵之介
インタビュー&出演動画『大河ドラマ 光る君へ』
以前出演させていただいた大石静さん脚本の連続テレビ小説『オードリー』と同じく、今作もまた故郷の京都が舞台なので、お話をいただいたときは……続きは https://t.co/IvHo4S2wQD
#光る君へ— NHKアーカイブス (@nhk_archives) February 12, 2024
20歳近く年の離れた宣孝は、女性のうわさが絶えず、紫式部は寂しい思いもしたみたいです。
2人の間には、女の子が後に生まれるものの、結婚から数年で宣孝は病で亡くなりました。
その悲しみの中で、紫式部はあの有名な「源氏物語」を書き始めたそうです。
一方その頃、その文才を買われた紫式部は、時の「一条天皇」の中宮・彰子(しょうし)に仕えることになります。
今でいうところの家庭教師のような役割です。
ちなみに彰子は「光る君へ」では、三上愛さんが演じることが分かっていますね。
◆◇出演者発表 第4弾◇◆
<道長の長女>#藤原彰子(ふじわらのあきこ) 役#見上愛 さん#光る君へ pic.twitter.com/MXSlluLpDY
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) May 23, 2023
内気な紫式部は自らが漢文の才があることを隠していましたが、彰子に教えていたことでその才が明るみになります。
彰子の父はあの藤原道長です!
当時漢文は男が学ぶものとされていましたが、道長は娘の彰子が漢文を学ぶことを後押ししたそうです。
そして、紫式部の書いた「源氏物語」も宮中で話題になり、道長の手によって世に広まったとされていますね。
そんな紫式部は、自らの日記の中で清少納言についてこう書き記しています。
「清少納言こそ したりがおにいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よくみれば まだいと足らぬことおおかり」
「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」
これを今の言葉に言い換えると・・・
清少納言は得意げに感じを書いているけど、よく見ると間違いばかりだ。こんな人の行く末に良いことなんてないだろう。
かなりの言いぐさですよね(;’∀’)
同じ女優作家という立場から、先に名を成した清少納言を紫式部は一方的にライバル視していたようですね。
清少納言の史実は?勝ち気で明るい性格だった
続いては清少納言です。
966年に当時の著名な歌人・清原元輔の娘として生まれた清少納言。
紫式部より7歳年上とされていますね。
清少納言も和歌や漢学を学ぶ環境に恵まれており、幼いころから才能が有ったとされています。
その才を買われて、一条天皇の中宮・定子(ていし)の家庭教師として使えることになりました。
性格は明るく勝ち気だったとされる清少納言は、定子にたいそう気に入られたそう。
ちなみに「光る君へ」で定子を演じるのは、高畑充希さんです!
◆◇出演者発表 第4弾◇◆
<道隆の長女>#藤原定子(ふじわらのさだこ) 役#高畑充希 さん#光る君へ pic.twitter.com/Tg2SHBXX5T
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) May 23, 2023
当時は漢文は男が学ぶのが一般的でしたが、清少納言はその才能を男たちの前で度々披露したそう。
しかし清少納言は定子の父・藤原道隆が亡くなり、道隆の弟・道長の権力が高まると、その立ち位置が危ういものとなっていきます。
スパイのうわさが出たことで、宮中を出て家に引きこもるようになってしまったのです。
そのとき、早く宮中に戻ってきて欲しいと定子が高級な紙を送ってきたので、そこに宮中でのやりとりを色々書き連ねた清少納言。
それが後の世にも名を残す随筆・枕草子!
あの、春はあけぼの・・・から始まる有名な一節ですね。
そして定子の求めに応じて宮中に戻った清少納言でしたが、道長の娘・彰子が中宮となり、さらに産後の肥立ちが悪く定子は亡くなってしまうのです。
ショックのあまり清少納言は、再び宮中を去り引きこもるようになりました。
しかし、自らが書いた枕草子が面白いと世間に広まったことで、再び加筆を続けることになった清少納言。
約10年後に見事完成させたのちは、京都の東山で尼になりひっそりと暮らしたと言われています。
まとめ
今回は「光る君へ」の清少納言と紫式部の史実についてご紹介しました。
2人とも宮中で仕えた女流作家と言う共通点はある者の、年齢は清少納言の方が上で二人に直接の接点は無かったとされています。
しかし一方的に先に活躍した清少納言に、紫式部が嫉妬していた可能性は残された文章からうかがい知ることが出来るようです。
性格は明るい清少納言と、内気な紫式部!
ドラマでもそれに近い形で描かれそうな予感がします。
「光る君へ」では、度々紫式部と清少納言の交流も描かれそうな感じなので楽しみにしたいと思います(^^♪
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